2010年7月31日土曜日

社会を生き抜くためにその本質を見抜け

このブログのアクセス解析を見ていると「自殺しないで良い方法」っていうのが、何故か知らないけれどもすごく人気があるようだ。なので、さらにもうひとつの考え方を紹介したいと思う。

① 社会における各メンバーの行動パターンが各々の幸福水準を左右する

恐竜が滅んだのは、最近では隕石の落下による地球環境の激変によるもの、という説がほぼ確定されてきているようだけれども、それ以外にも実に興味深い説を聞いたことがある。恐竜同士があまりにも長い平和に漬かりすぎたために「いい人(恐竜)ばかりになって、ある日出てきた悪(い恐竜)人に社会的に対応できなくなって崩壊した」というものだ。
どういうことなのだろうか。その前に前提知識として簡単にゲームの理論についてご説明したい。

ゲーム理論の話をするとき、必ず登場するのが、「囚人のジレンマゲーム」である。
ネット上にこの手の情報はあふれているので、そちらを読んでもらいたいが、一応簡単に説明する。

二人の犯罪者が共犯で犯罪を犯し、取り調べを受けている。
両者は別々の部屋で取り調べをしているので、情報交換はできない。警察において、二人がそれぞれ選択できる行動は「自白」と「黙秘」である。

それぞれ、相手の行動によって、以下のようなパターンになると仮定する。青の犯罪者と赤の犯罪者について考えてみよう。
数字は懲役年数の数だとする。この表によれば、お互いが黙秘すれば5年、お互いが自白すれば15年の懲役年数だとする。
もし、自分が囚人だとして、相手に黙秘してもらってこちらだけが自白すれば無罪で済むとする。
そうするとたいていの場合、犯罪者同士なので互いに裏切り合うため、各々15年の懲役をお互いがくらってしまう、ということになる。


しかしこの表には別のパターンもある。お互いが黙秘することを信じて一方が黙秘、もう一方が自白した場合、一方は黙秘したのに懲役に行き、自白した方は相手を裏切ったにもかかわらず、無罪放免ということになる。この場合、懲役に行った方は裏切った相手に「うらみ」を持つことになるだろう。

そうすると、相手に対して裏切り行為を行おうとすれば、相手のうらみを買うことになる。なので、これが一回こっきりのゲームであれば、おそらくお互いがお互いを裏切るような結末になると思われるが、もし「連続的な」囚人のジレンマゲームとなっていた場合、もし相手を裏切ったら、出所後、相手からの仕返しを受けることになるだろう。

このようなマトリックスは社会のどこにでも存在する。仕事においても、黙秘と自白というものを裏切りと協調という言葉に置き換えればいい。会社においても、学校においても、他人との関わりの上で生きていかなければならないからだ。

ここでいくらか時間が経つと、このゲームのプレイヤーは、少しのマイナス部分があっても協調し続け、相手との少ない損を積み重ねていく結果、お互いが大きな損を積み重ねていくことを回避することができるということに気づくようになる。話し合いや信頼関係というものが生まれてくるわけだ。

一回こっきりの関係では、相手を裏切った方が得する部分が多いが、あるいは得が少なくても、連続的な関係を長期に続けていけば、協調関係を維持した方がトータルで見ると大きな得になるんだよー、というのがこの理論のすごいところなのである。

こういうゲームが人生の裏側、動物の世界、昆虫の世界などにも見られ、多くの人々が研究しているようだ。

まずこれさえ押さえておけば、人間関係を構築するのは簡単だ。後は、相手の行動パターンがどういうものであるか、を研究すれば良いことになるからだ。もし、自分を取り巻くメンバーが、行動パターンにおいて、「協調する」ということで長期的関係を築いていこうという気持ちがあるのかどうか、というところを見なければならないだろう。もし、短期的な関係のみに終始するパターンにおいては、相手を裏切ったまま逃げ切るのが上策パターンということもあるので、それも一応、加味しておくべきかもしれない。

さて、恐竜の話に戻るけれども、その絶滅した恐竜というのが言ってみれば「うらみって何だっけ?」という仕返しという概念を失った生き物になったせいで絶滅したんじゃないか、という話なのである。それはあまりにも恐竜の時代が長く、お互いが協調するのが当たり前の時代があまりに長く続いたせいで、この「うらみ」や「相手が何をしたのが憶えるという習性を失った」ので、ある日、とてつもなく悪い恐竜が現れても、それに対してブレーキが効かなくなってしまい、うらみを持たない生き物は全滅し、またその後、その生き物をカモにしていた悪い恐竜もその生活基盤を維持できずに滅んだ、という説である。
例え、恐竜が滅んだのが隕石衝突のためであったとしても、この説は何だか日本の社会とそこにおける暴力団の関係を思い出させ、非常に興味深い。

② 社会は良い局面と悪い局面のサイクルがある?

自分が思うのは、社会にいい人ばかりが充満すると、あまり相手に対して恨みを持ったり、仕返しをしたり、そういったことが「めんどうな」ことになり得ると考えられるが、一方でそういうことをするのが平気という人間もいる。こういう社会では、実に利己的に相手に対して悪いことをしても、相手からのしっぺ返しがきづらくなるので、悪いことするのがヒャッハー状態になることになる。
言い換えると、他人をこき使ったり、暴力や圧力や脅しみたい手段そのものがそのコストに比して、大きな利益を獲得する材料になってくると思われるのである、しかも、一方でいい人がその悪い相手に対して反撃に出るのではなく、自ら力尽きて自殺、みたいなパターンに陥りがちになるのである。

なので、もし何となく心を病んでいるのであれば、まず、上記をふまえ、「常にいい人でいることをやめる」ことがひとつと、もうひとつは表現の形は色々にしろ、人(生き物)というのは、基本的に利己的な存在なのだ、ということを理解すればいいと思う。

最初から頼まれもしないのに信じ切ったりするから、裏切られた感が強く出て心を大きくスポイルしてしまうのだが、これは一種の甘えと割り切り、社会というものはもっとドライであり、それこそ「ゲーム」であって、裏に法則が隠れていくことを察知し、それをふまえた上で自分の行動を変えていくのが良いのではないだろうか。

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