2010年8月31日火曜日

とりあえず、ずっと仲が良い二人



引きこもりの方はどんどん引きこもりになりそうな気もする。

2010年8月30日月曜日

テレビ



最近は、海の向こうではパソコンばかりでテレビを見なくなっているのだろうか・・・。
本当にゲゲゲの鬼太郎に出てきそうな妖怪となって、テレビが自分に構って欲しいといたずらするというもの。

詳しい話はこちらでどうぞ。


うちのはブラウン管ですが(・∀・)

たまに見ても、もう映らなくなるよってばっかり言ってる。

2010年8月28日土曜日

健康作りのためのメモ

自分はここのところとても体調がよいです。本とか読んで自己流アレンジして生活しております。
結構、健康マニアの素養があるのかもしれないですが、そのエッセンスをご披露します。

① 大豆中心の食事。
毎日、豆腐を食っています。以前に紹介した「知るを楽しむ・この人この世界・家森幸男」編によれば、大豆中心の食事をしているところ、ブドウ(野菜・果物)を沢山食べるところ、乳製品を取るところ、塩分をあまり取らないところ、魚を沢山、肉をほどほどにしている地域、というのが長寿地域ですよと書いてありました。
なので、豆腐や納豆を食べる習慣を付けました。まず良質なタンパク質であるのと、後はイソフラボンが良いみたいです。あと、ブドウが良いなら葡萄中心の野菜ジュースも一緒に飲むといいんじゃね?ということで、1リットルパックを冷蔵庫に常備することにして、甘いものが欲しくなったらこれを飲むようにしました。これでアントシアニンとポリフェノールですよ。野菜はなるべく沢山買おうとは思っているのだけれど、いかんせん高い。なので、安い野菜ジュースで代用することにしました。
後は、ケロッグのコーンフレークを朝食としてなるべく食べるようにしました。タカナシ牛乳って結構おいしいです。

② 運動の習慣化。
どうも家で引きこもっていると、なんか肩凝ったり、気分が滅入ったりするので、三ヶ月前にクロスバイクを購入しました。これで適当に流してると結構スピードが出るので、どこにでも行っちゃう感じです。道に迷っても携帯(ガラケー)でアプリ版Googleマップがあるので、パケホーダイに対応している場合はお勧めです。 

こういうスポーツ系の自転車はカスタマイズが色々できてオタク心をわくわくさせるものがありますが、とりあえずペットボトルホルダーとか付けると良い感じです。信号待ちのときにさくっと飲めます。ペットボトルホルダーには、冷やした水を入れるのですが、ぬるくなっても結構おいしいです。近所のスーパーで88円で1.5リットルのミネラルウォーター(軟水)を買ってきたのを飲んでいます。トドメに、抗酸化物質ということで、ビタミンC(アスコルビン酸)の粉末を入れておく場合もあります。 
本当は水泳が関節に負担がかからないし、全身運動という意味でベストなのだろうけど、これは通うのが結構大変。後、泳ぐという行為自体が非常に退屈なのが欠点。まあ、自転車に乗ってたまに行く程度で。行った後は結構、体調が良くなる感じはある。おそらくやはり身体全体に血流が行き渡る、というのがこの気持ちよさののポイントなのだろうとは思います。

③ サプリメント。

エビオス錠を飲んでます。なんか肌がつるつるして気持ちよくなったような気がする。ひょっとしたら別のビール酵母系のやつも試して比較するかも。
あと常磐薬品のビタシーを飲む場合もあります。理由はビタミンBとタウリン1000mgも入って、1本88円という超リーズナブルさが選択の理由。タウリンは血圧を下げるのと、コレステロールを抑える効果があるというので。あとは炎症作用に効くというのがあるので、予防的な意味もこめて摂取。
父親に金属アレルギーがあるので、自分にも何か遺伝してる可能性もあるので、無用に金属に触れないようにしています。アクセサリー系はしないし、時計も肌に触れるところは非金属製です。(これは前から)

④ 早寝早起き。
これが実は一番難しかったが、良い方法があった。それはテレビ断ち。最初は週三日とか、好きな番組を録画しておくとか色々していたけれど、結局、見ない習慣が続くとテレビがだんだんどうでも良くなってくる。そして、たまに見ると、かなりおもしろく感じるときと、やっぱりつまんなく感じるときとがすごく心に響く感じになった。
で、もう9時ぐらいにアルコール(ビール350ml缶)を飲んで、眠くなったら寝てしまう。(10:30~11:00)
完全にアルコール断ちしないのは、「人体スペシャルレポート」という本がうちにあって、その本によれば1日28グラム以下なら逆に健康に良い、という記述があったからで、他にも特に日本酒を常用してる人は、血液検査でHDL(善玉)コレステロールが高いという話をたびたび聞くことがある。ひょっとしたら毎日ビールというより、日本酒に一部変更した方がいいのかも?しれない。
できれば、4時ぐらいに起きたいのだけれど、やはり5時半ぐらいが標準ぽい感じです。

まだ発展途上です。どうなるかわかりません。
健康大好きです。健康のためなら死んでもいいっていうセリフの足音が聞こえてくる今日この頃です。
あと、バカなのでIQを上げる方法があったら是非教えてもらいたいです(><)

どんどん変わる未来

 
小沢さんが代表選に出るんだって(短期的予想)

で、うっかりすると代表戦で勝ってしまう可能性もあるそうだけれども、まったく小沢さんの顔を出さないで、ベランメェな麻生さんから、お坊ちゃま系の鳩山さんにみんな投票して政権交代になった昨年から1年、(8月30日)、よよよ、よよよよと菅さんが総理大臣になってから、まだいくらも経っていないのにもう交代ですか的な話になりつつある。いくらなんでも小沢さんを選挙の顔に据えていたら、投票しなかった人も多かっただろうから、政権交代も起きなかったかもしれない。

だからこれで小沢さんが総理大臣になったら、これはもう民意の反映とは言えないだろう。で、菅さんは一応、参議院選を乗り切った。そして菅さんは今総理大臣だから、解散権を持っている。だから、もし小沢さんに代表戦で敗れたら、本来は解散するのもOKだ。本来選挙によって選ばれてない人が、いつの間にか総理大臣になりそうです、ということだから、民意を問うと言えば良いのだ。

で、こういう風にしますよと代表戦に投票する国会議員達に対してもメッセージを発すれば、議員の皆さんは選挙はイヤなはずだから、本来だったらみな菅さんの言うことを聞くしかないはずなのだ。あるいは、それで解散すれば民主党が割れるのかもしれないということもある。

そうすると、特に若手国会議員なんかは、逆風は必至となるだろうから、結局落選するしかないだろう。その理由は、①民主党が与党としての権力を維持しきれていないことと、②政治混乱をわざわざ作ったことによる批判が起こるだろうからだ。

結局、菅総理が代表戦で負けるというのは、菅さんが本気で総理大臣のイスを守る気があって手を打つよーというメッセージを発するのであれば、小沢さんが勝つ理由は本来はないと考えられる。

実は政治の混乱自体が官僚の計画?(中期的な話)

小沢さんが著した日本改造計画という本があるけれども、それは片山さつきさんの先輩、(つまり大蔵官僚)が書いたのよ、という記述を見たことがある。
で、小沢さんの方向性というのは、結局、大蔵省と親密だった師匠であるところの田中角栄元総理だろうと思う。検察とのやりとりや大蔵省との関係などを見ていると、その頃からの流れをずっと引きずっているようにも見える。

さらに言えば、強力なリーダーが現れた方がいい的な話が世間にはよく出てくるのだけれども、日本における実際のリーダーは政治家をではなく、あまり表に出てこない役所の偉い人なのかもしれない。彼らの思想の中心はこの日本「国」に対する愛国心で、それに対してチクチクと外国からの勢力が攻めてきているという構図が続いてるのだろう。結局官僚が日本国の方向性を考え、政治家と官僚と財界でなあなあでうまく話し合いながらやってきた。それが小泉純一郎総理が出てくるまでは続いていたのだろうと思う。

その小泉総理の権力の源泉は、90年代半ばに小沢さんが政権交代ができるようにするために作った小選挙区制だろう。しかし、実際運用してみると、これはとっても「国を守る側」には危ない感じのシステムでもある。

結局、この選挙制度というのは「白か黒か」を選挙民に要求するシステムだから、グレーな考えというのが国会からなくなってしまう。メディアとカネを握れば、あとは与党党本部が気に入らない議員に自由に刺客を送ることができるというこの選挙制度の下では、基本的に政治のトップレベル層に大きなパワーが集中するからだ。
だから、一部の権力者が日本における絶対的な権力を確立するためには必要なシステムだったと思われる。

しかし、小泉総理みたいなのがずっと政界に君臨するとどうなるかというと、逆に役所の権力というのは政治によって倒されてしまう。意志決定がみな政治によってコントロールされてしまうからだ。なので、本来は官僚が想定する誰かが政治の中心になっていることを想定して作った法律なのかもしれない。

もし、政治家が官僚の言うことを聞かないのであるなら、逆にこの国の伝統よろしく政治がいつもくちゃくちゃになっていた方が、政治家をコントロールしやすいので、官僚にはそれが有利ということになる。その理由は、政治をいじるには、専門知識と裏の約束と法律と人間関係という、とてつもなく複雑なシステムを熟知していなくてはいけないから、「それはこれこれで、こういう法律でこうなっていますから、こうするしかないんですよ」という役人の「ご説明」で簡単に粉砕できる。
だから、素人議員がいっぱいいるというのは、官僚にとってとっても御しやすい。おまけに政治家というやつは、選挙に勝たないと席が維持できないので、地盤を盤石にするのに最初はほとんどのリソースを取られる。結果、素人が国政に来ても、その存在感は誤差の範囲ということになる。

どっちにしても今ある日本2.0は終わるかもしれない(長期的には・・)

もし、日本1.0を明治維新に始まったものだとすると、今の日本2.0は敗戦後にできたアメリカ的な民主主義的な議会運営システムと言えるけれども、もう最近、ネット上で日本\(^o^)/オワタ 的な言説が見られるように、制度疲労と権力層における人間関係の硬直化と国民の高齢化などなど、世界の成長と別のガラパゴス化の道を辿りつつある。
別にいつ破綻するっていうわけじゃない。今すぐどうなるわけでもない。結構、日本は何百兆の借金があると言っても別に誰かが取りに来るわけじゃない。

日本の危機というのは、ずばり若者が危機に晒されていることだろうと思う。
実は全地球的に言えば、これまで人類の歴史上、あり得ないぐらいの高度成長をしているから、本来仕事なんてやりきれないぐらいあって、カネも資源もあふれるぐらいあって、知力だって他の国の若者に比べて非常に高いと思う。

では何が足りないのか、それは「英語力」(海外とのコミュニケーション能力、あるいは人間関係)だと思う。単に日本の高品質の人材が、実は単に日本という枠の中に押し込められているから、既に成熟してしまったこの社会で何かをすること自体がうまくできなくなっているんじゃないだろうか。

だけれども、今の日本の権力者層がその地位で居られるのは、日本人が日本語をしゃべり、日本で一生を終えるからであるから、みんな普通に英語をしゃべって、海外で暮らし、カネを稼いで、外人と結婚すると、残った日本には、単に非効率な一部の人だけに有利なガラパゴス的行政組織だけが残ってしまう。しかし、このままITや教育システム、外国人の流入、仕事のやりとりなどの不可逆変化が進んでいけば、早晩、日本の中間層も英語当たり前、仕事は外人と一緒にやる、ということになっていくだろう。
そうすると、日本の枠に囚われない、ニートをやるより外国を放浪するパターンにも多くなってくるかもしれない。

だから日本国の最後というものがもし来るのだとしたら、日本人の中心のボリュームゾーンの人々が英語OKになってしまい、「日本人が半外国人化して溶けてなくなること」によって起きるんじゃないかと、最近、思っている。

2010年8月15日日曜日

どれぐらい相手と協調するか

よく考えることだが、長期的な人間関係を考える際、どのぐらい相手と親密になるべきかのかというのがよく問題になる。

しかしここのところ職場を見て考えるのだけれども、相手(会社)との無駄な親密さというのが、単なる「甘さ」、あるいは「無思慮」にしかならない場合というのもある。

つまりこちらが甘いと、それにつけ込んで相手(特に会社)は、大きなサービスを行わなくなる、あるいは適当なサービスしかしなくなる、という厳然とした事実があるからだ。相手が単なる個人的な人間関係であれば好きだからいいや、で済むのだが、仕事同士の関係となるとそうもいかなくなる。こちらも組織の一員であるためだ。

一方で「うるさい客」である方には、それなりのリソースを払うというのがある。(いやいやながら)

この不完全な世の中においては、自分が相手にとって「上客」であるはずなのに、特に面倒を見なくてもいいと判断されると、適当なサービスで放っておかれるということなのである。

で、逆にそこの部分を厳しく突くと、今度は平身低頭でやってきて、価格を下げ、今までにないようなサービスを提供し、偉い人まで現れる始末。
残念なことだけれども、「買い」側の立場からすると、それなりに相手にとって「クレームを付ける」「良くない客」になった方が、その会社から得られる利益が大きくなってくる場合というのはある。

特にこれだけ社会がカネに関して厳しくなってくると、そのコストカット的な部分では相手に大きく譲歩をお願いする場面も出てくる。その中で、相手がどれぐらいこちらのために動いてくれるかという場面で、ある程度こちらが逐一「要求」を突きつけないと実現できない、という部分があるのは非常に気持ち的に苦しい部分もある。

もっともこれは自分たちも相手からそういった要求を突きつけられるということがあることも意味しているわけで、そういった意味では企業、あるいは人はより一層「スマート」であることを要求されるのかもしれない。顧客データベースの充実が必要で、そのデータベースには、協調可能な相手か、上得意か、あるいはコスト削減要求の強い相手か等をカテゴリ別化する必要があるかもしれない。

まず「顧客名簿」を整理し、それを整頓し、相手の履歴を見ながら「仕事」をする、あるいは「サービス提供をする」という必要があるのだろう。

思いが至っていなくても、売り上げややりとりをみて、実は上客だったと判断される場合、先回りして他社とは差別化して大事にするべきだということだ。

これは考えてみれば当たり前だけれども、意識していないと実践が難しい。

逆に言えば、うるさい割に大した売り上げのない相手はバッサリ切るべきという結論にも達する。

何故かというと、まずこちらが動けるリソースには上限があるからだ。なので、小さな売り上げに対してリソースを多く要求する顧客と、そうでない客の二種類に分けられるのだとしたら、「うるさい割に売り上げの少ない客」は大胆にカットして、「上客」に対して出来うる限りのリソースを投入する方が合理的、ということになるからだ。

もうひとつは、小さい割にうるさい客ばかりの世の中になってきたのであるならば、そういう客対策として、仕事を定型化して、圧倒的にコストを削減し、そのパターンの中でのサービスの提供、という形にするべきなのかもしれない。サービスがパターン化されていれば、コストは削減できるし、それ以上の何かのサービスを要求されるのであれば、そのパターン全体を変更するか、断れば良いのだ。

もっとも最初からそういう顧客名簿を作ることはできないので、これは日頃からの作業でやっていくしかないが、単に相手とのやりとりという部分を経験上からしか得られないというよりは、よく相手を見ながら判断を下していく、というのは、やはり商売の基本として、非常に重要じゃないかと思うわけだ。

きっと大きく見れば、社会における自己バランスシステムみたいなものなのだろう、世の中の無駄を省き、リソースが適切に分配されるための。

2010年8月10日火曜日

夏と戦争と言葉、そして未来



えっ。中国でも満州でもインド洋でも戦争してたのに「太平洋戦争」なんですか?

この季節にになると、よく話題になるのが戦争の話。なかでも太平洋戦争である。
和製英語という言葉があるのだけれども、実は逆方向の言葉である「米製国語」というのもあるんじゃないかと思う。

かつての戦争中、それまでは「大東亜戦争」という呼称が使われていたが、敗戦後、当時のGHQがこの名称の使用を禁止し、替わりに使われるようになったものが「太平洋戦争」であり、「第二次世界大戦」なのだそうだ。

日本の歴史を斜めにでも読めば、「太平洋戦争」という呼称自体が日本にそぐわないことが明らかで、もし「太平洋戦争」と言えば、「アメリカとの戦争」を単純にイメージしやすいし、「アメリカに敗北した戦争」という感じにもなる。しかし、実際にはアメリカとの戦いながら当時の中国とも戦争をしていたし、イギリス海軍とはインド洋で戦った。
「太平洋」という言葉でくくると、実際にその当時の日本の考え方や行動がうまく説明できなくなる。

おそらく「大東亜戦争」という呼称を禁止したのは、「大東亜共栄圏」というイメージがしやすく、結果、侵略者である白人達(実際、当時の東南アジアはヨーロッパ諸国の搾取の対象だった)からアジアを開放するための戦争だという、当時の日本の主張につながりやすい。このイメージを潰すためのひとつの心理作戦なのだとは思う。

また「第2次世界大戦」という言葉を使うと、「世界中戦争してたんだから、日本も戦争してたのはしょうがないよね」というイメージを作りやすい。「終戦」という言葉は誰が使い始めたのかわからないけれども、「敗戦」と呼ぶよりも、人間同士の抗争があってそうなったわけではなく、ひとつの災害が終わったようなイメージになる。

言葉をねじ曲げて歴史を修正する手法

そして今もそういう「米製国語」というのはあって、例えば「イラク空爆」というが、この空爆と空襲というのは全く同じものだ。しかし、空襲という言葉が新しくなって「東京大空爆」とは言わないし、「イラク空襲」とも言わない。あくまで過去の話は「空襲」であって、今の話は「空爆」である。だから仮にバグダッドが空爆されても、空襲じゃないから、降り注ぐ爆弾による街並みの爆発よる破壊や、火炎の中で子供を含む一般人が死んでいくイメージが作られにくい。あくまで軍事施設を攻撃している感じがする。

さて、日本人は「改革」という言葉が好きだ。一方で、西洋で用いられるのは「革命」だ。改革と革命がどう違うのかというと、改革はそれまでのやり方を変えるのに対して、革命はそれまでの権力者を一掃して新しい権力者が生まれることだけれども、日本は歴史が万世一系だから革命は起こったことがない。フランス革命での国王をギロチンにかけて民主主義を権力を奪い取ったというストーリーは日本にはないのだけれども、では、そういうエネルギーが日本国になかったか、というとそういうわけではないと思う。

結局、それが明治開国以来の戦争であって、そもそも権力者というか、強力なパワーを持ついやな存在、フランス革命で言えば国王であったりするものが、実は日本人にとっては「海外の得体の知れない国々」であって、それに対して大量の血を流して戦ってきた歴史がある。

そして勝ち取ったのが今の独立であり、主権であるような感じなのである。そのせいで、この時代になるまで本当に数百万人の犠牲者が出たわけなのだけれど、その結果、一応目標とする平和と繁栄を一度は勝ち取ったわけではある。

そして今後はどうしていくか

しかし、いまだに一方で戦争を起こした犯罪者みたいな自己イメージを不当に植え付けられている、というフラストレーションは持ち続けているわけで、経済と科学の発展というひとつの目的を達成した後、何とはなしにまだ満たされていない部分が残っているんじゃないかと思う。
結局、今の日本人の深層心理における自己イメージというのが、ドラえもんにおける「スネ夫」のようなものだろう。暴力的で横暴だが、ケンカで勝てないジャイアン(アメリカ)に対して媚びへつらい、カネと成績の良さ、自分より弱いのび太に対してあれこれ自慢したり高慢な態度で自らのプライドを補強している姿。わかっていながらそういう行動をやめられない自分を嫌いつつ、一方で過去、戦いを起こしたせいでアジアに迷惑をかけ、罪深い存在となったとして暴力を封印した今の姿がある。

将来、その満たされない気持ちが、過去の歴史の読み直しにつながって、それがまたこの国の方向性に影響を与えるという可能性はあるのかもしれない。

そう。負けはしたもののそして強きをくじき弱気を助け、幸せな社会をつくるために気高く、力強く、本来なら、高い尊敬を得られる立場だったところをまた目指す、とかそういう方向性に。

ただその時にまた力に対して力で対峙するのか、具体的に何と対峙するのか、どう行動していくのかは、まだよくわからない。

2010年8月8日日曜日

カネについて考える

現在も、人を評価する大きな尺度は「カネ」だ。女子は男をどれぐらい稼げるかで値踏みするし、企業においては、社員はカネを与える相手に対して忠誠を尽くし、売り上げがその企業判断の中心にある。とりあえずこの社会の中心は「カネ」で構成されているかのようだ。

ある種の人々は他者に対するシグナルとしてブランド品を購入する。自尊心を満足するために大枚を払って自らを飾り、他者より自分が素晴らしいことを確認する。
しかし、それで得られる価値というのは、それをうらやむ人がいてやっと成立するのだが。
宝石やブランドの服などのアクセサリーは文字通り「飾り」であって、ある種の経済力を持っていることを発信するための道具にしか過ぎない。

そしてもう一つ、そもそもみんな何故そんなに金持ちになりたいのか。ひとつは「不安要素」を払拭することができるというのと、もうひとつは他者との差別において自分が有利な立場を社会上で持っているという安心感を得られるからというのが、あるのではないかと思う。
ホームレスともなれば、病気になっても病院に行けないし、日々の生活にも困るが、金持ちなら一般人が受けられないような高度な治療も受けられるかもしれない。食べるに困らないし、よい配偶者を得られるチャンスも増えるだろう。それが安心感がもたらす魅力というやつだ。

つまり、他者との関係性において「カネ」を使えば有利に人生を進めることができる、というのがカネが持つパワーの源泉で、他者に対して有利な立場(影響力を与えること)となり、自分一人では突破できない問題に突き当たった時に、プロを雇って問題を解決できるということがある。

しかし、カネというもの自体は、「価値がありますよ」「数字を持っていますよ」という社会的な証文を持っているに過ぎないもので、その価値は極めてバーチャルなものだ。単に社会の皆が「価値がある」と何となく認めるところに価値があるわけで、例えば、ジンバブエのようにハイパーインフレになれば、その価値は崩壊してしまう。

一方で、銀行は、自己資本、つまり自ら抱えるカネが例えば10円しか持っていないのに、他人に100円を貸して利息を取るという商売をしている。銀行以外の存在がこれをやれば詐欺そのものなのだが、なんとこの資本主義社会の仕組みを支えているような顔をしていて、銀行の融資の担当者が「俺がこのビルを建てた」などと言う。

資本主義を支えているのは資本じゃない。資本があるとみんなが思いこんでいて、数字を使って価値のやりとりをしようという合意がそれを支えているのだ。
そして実際にはカネには額面上の価値などない、それがこの世の中の実態なのだ。

しかし一方で、間違いなく価値があるものは存在する。それが人々の持つ知識であり、それに伴う道具であり、他者との信頼関係である。
ビルを建てるという意味で言えば、建築理論であり、重機を扱うスキルであり、日々、人々が働く仕組みである。

何か問題が解決できないことがあっても、実は他者の協力があれば、社会に存在する知識や道具の範囲であれば解決は可能だ。あるいはシステムとしてのカネがなくても、長年の信頼関係があれば、社会のカネにかかるシステムが完全に崩壊したとしても、カネを超越したところで協力し合うことができ、価値を創造できる。あるいは仮に円が崩壊してもドルで、ドルが崩壊しても元で、元が崩壊しても貴金属で代用しつつ仕事を進めることができるだろう。

カネを超えたスキルや人間関係というののは、言い換えればカネを持っていなくても持っているのと同じ効力を持っている。逆にどんなにカネを持っていても、現在は不老不死や若返りの丹薬を手に入れることはできないし、外宇宙まで航行できる宇宙船も造ることはできない。それを可能にするのは、新しい理論(技術)と道具によってだろう。

そう考えていくと、手っ取り早くカネを儲けようとか、自らをアクセサリーで飾ろうとかというより、自らが持つ他者に対するサービス能力、スキルを向上させ、価値ある(長期的な)人間関係を構築することに徐々に比重を置いていく方が、実は真に豊かになるという意味では近道なんじゃないかと思える。

2010年8月5日木曜日

楽しく稼ぐには道具が必要

仕事について色々と考えていたが、やはり中心的な考え方というのは「楽しく稼ぐ毎日」というテーマが有効なのではないかと思った。ホリエモン的な「稼ぐが勝ち」という発想しかないと、やはり周りからの大きな反発もあるし、金儲け自体が楽しさよりも優先順位が上に来てしまうので、幸せな生活を目指すということを考える上でも、それを持続的に発展させるという意味合いにおいても、ともに難しくなってしまう。

そこで楽しさを追求することをベースに、二次的な意味で、稼ぐという目的意識を持つのが良いのだろうと思った。

一般に金儲け自体を単なる目的とした会社組織に属していると、真面目さをアピる発想から出発したセコい仕事ぶりが染みついてこないだろうか。何かを印刷するのにコピーの裏紙をこんなに使ってますとか、古いPCを不具合を抱えながらメモリも増設せずに使い続けるとか、専用ソフトを何も買わないとか枚挙にいとまがない。で、そのコピーの裏紙を使ってコピー機が紙を詰まらせたり、PCの処理の待ち時間が長かったり、長い目で見れば損をしている。

仕事のクオリティを上げる、稼ぎを上げるには、結局、広い意味での「道具」に投資するしかない。

この道具っていうのは、勉強して得られるスキルと言い換えてもいい。例えば、必要となる免許とかもそう。例えば:

運送会社がトラックなしで仕事ができるだろうか?
建設会社が重機なしで仕事ができるだろうか?
通訳が外国語のスキルなしで仕事ができるだろうか?

答えはすべてが否、でありましょう。人間性とかはまったく関係なく、すべては可能かどうかなのであります。逆にプロがすごい機材を楽々と扱っていると「やっぱプロだなー」と、その雰囲気にも圧倒されてしまう。

結局、プロ用の道具(あるいはプロとしてのスキル・知識)をいかに世の中で使えるかで仕事のクオリティは決まる。

人間関係も必要だけれども、だいたい何でもうまくいっていれば人間関係ってそんなに悪くなんてならない。営業の時に出来もしない仕事を取ってきて、やっぱりできませんでしたっていうから、「約束と違うだろ、この嘘つき」っていうクレームが来るというだけじゃないだろうか?

人間が石器や火を使い出してから、この流れは終わらない。楽しく稼ぐという意味においては、ドラえもんが秘密道具を次々出してくる、あの不可能を可能にする感じを大事にしたい。