2010年8月8日日曜日

カネについて考える

現在も、人を評価する大きな尺度は「カネ」だ。女子は男をどれぐらい稼げるかで値踏みするし、企業においては、社員はカネを与える相手に対して忠誠を尽くし、売り上げがその企業判断の中心にある。とりあえずこの社会の中心は「カネ」で構成されているかのようだ。

ある種の人々は他者に対するシグナルとしてブランド品を購入する。自尊心を満足するために大枚を払って自らを飾り、他者より自分が素晴らしいことを確認する。
しかし、それで得られる価値というのは、それをうらやむ人がいてやっと成立するのだが。
宝石やブランドの服などのアクセサリーは文字通り「飾り」であって、ある種の経済力を持っていることを発信するための道具にしか過ぎない。

そしてもう一つ、そもそもみんな何故そんなに金持ちになりたいのか。ひとつは「不安要素」を払拭することができるというのと、もうひとつは他者との差別において自分が有利な立場を社会上で持っているという安心感を得られるからというのが、あるのではないかと思う。
ホームレスともなれば、病気になっても病院に行けないし、日々の生活にも困るが、金持ちなら一般人が受けられないような高度な治療も受けられるかもしれない。食べるに困らないし、よい配偶者を得られるチャンスも増えるだろう。それが安心感がもたらす魅力というやつだ。

つまり、他者との関係性において「カネ」を使えば有利に人生を進めることができる、というのがカネが持つパワーの源泉で、他者に対して有利な立場(影響力を与えること)となり、自分一人では突破できない問題に突き当たった時に、プロを雇って問題を解決できるということがある。

しかし、カネというもの自体は、「価値がありますよ」「数字を持っていますよ」という社会的な証文を持っているに過ぎないもので、その価値は極めてバーチャルなものだ。単に社会の皆が「価値がある」と何となく認めるところに価値があるわけで、例えば、ジンバブエのようにハイパーインフレになれば、その価値は崩壊してしまう。

一方で、銀行は、自己資本、つまり自ら抱えるカネが例えば10円しか持っていないのに、他人に100円を貸して利息を取るという商売をしている。銀行以外の存在がこれをやれば詐欺そのものなのだが、なんとこの資本主義社会の仕組みを支えているような顔をしていて、銀行の融資の担当者が「俺がこのビルを建てた」などと言う。

資本主義を支えているのは資本じゃない。資本があるとみんなが思いこんでいて、数字を使って価値のやりとりをしようという合意がそれを支えているのだ。
そして実際にはカネには額面上の価値などない、それがこの世の中の実態なのだ。

しかし一方で、間違いなく価値があるものは存在する。それが人々の持つ知識であり、それに伴う道具であり、他者との信頼関係である。
ビルを建てるという意味で言えば、建築理論であり、重機を扱うスキルであり、日々、人々が働く仕組みである。

何か問題が解決できないことがあっても、実は他者の協力があれば、社会に存在する知識や道具の範囲であれば解決は可能だ。あるいはシステムとしてのカネがなくても、長年の信頼関係があれば、社会のカネにかかるシステムが完全に崩壊したとしても、カネを超越したところで協力し合うことができ、価値を創造できる。あるいは仮に円が崩壊してもドルで、ドルが崩壊しても元で、元が崩壊しても貴金属で代用しつつ仕事を進めることができるだろう。

カネを超えたスキルや人間関係というののは、言い換えればカネを持っていなくても持っているのと同じ効力を持っている。逆にどんなにカネを持っていても、現在は不老不死や若返りの丹薬を手に入れることはできないし、外宇宙まで航行できる宇宙船も造ることはできない。それを可能にするのは、新しい理論(技術)と道具によってだろう。

そう考えていくと、手っ取り早くカネを儲けようとか、自らをアクセサリーで飾ろうとかというより、自らが持つ他者に対するサービス能力、スキルを向上させ、価値ある(長期的な)人間関係を構築することに徐々に比重を置いていく方が、実は真に豊かになるという意味では近道なんじゃないかと思える。

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