2013年11月4日月曜日

【映画】スティーブ・ジョブズ



実は、この映画「スティーブジョブズ」には批判も多いことは知っていたので、あまり期待しないで観に行った。 しかし、役者たちも実在した人物にすごい似せようとする努力もしているし、時代感が絵としてうまくまとまっていて、それを目で追うように眺めているのが楽しくて、結果として映画としては楽しめた。

 物語前半、70年代のアメリカの風景。強国だったはずのアメリカにはどこか閉塞感や空しさが漂い、美しいけど、どこかもの悲しい、軽い絶望の世界でもあった。舞台は中でも自由な雰囲気の西海岸。そこにはLSDなどのドラッグの存在もあって、ジョブズもそれを手にするシーンがある。
 ある日、ジョブズが仲間たちと木漏れ日の光の美しさを堪能して、その後、「なにかを見る」シーンがあるのだけど、ひょっとしたらLSDを使っていたのかな、と思える部分である。

 LSDと言えばティモシー・リアリーなのだけど、彼はLSDを使った「回心(宗教的に感じる心の大転換)」によって、刑務所の受刑者の再犯率を下げようとしていたことがある。つまり何か、人生観を根底から覆す何かの精神的な体験をすることで、新しい人生を切り開くというやり方なのだ。もっとも、今はそんな薬物で精神そのものを乱暴かつ強引にいじくり回す方法は、法で禁じられている。

 この映画を観ると、あの日、ジョブズが見ちゃった、あの「なにか」は、こういう、あの時代特有の方法で得たものなのかな、と思ってしまったりもする。

 さて、この映画、「あれ?禅は?ピクサーは?NeXTの話はこれだけ?」とツッコミどころは満載ではあるものの、そこはまあ、それとして、ああここが違う、これもなんかおかしいと思うより、あの時代から今の時代に続いているんだという、トムハンクスのフォレストガンプ的な楽しみ方が正解だと思う。

 映画「フォレストガンプ」は、アメリカの一般人の歴史をなぞって自らの人生を振り返る楽しみがあるようだけれども、時代も違うし、アメリカ人ならぬこの身には、その映画を観るとき、自分の人生には適用できないというちょっと諦めにも似た感情が漂う。
 しかし、この映画「スティーブジョブズ」なら、いわゆる日本のパソコン少年にも、ちらっと出てくるアップル2の当時のライバル、コモドールのPETなどを見て、「ああ、あったよねー」「昔読んだマイコン雑誌に(特に月刊アスキーとか)載ってた広告や記事のアレだ!」という、今となっては懐かしい時代を思い出させるとともに、その時代からずっと、いろいろなパソコンやらデバイスやらが、人々の試行錯誤を経て、連綿と、今現在にそのままつながっていることを実感できる。(とは言え、潰れた会社のいかに多いことよ・・)

 今の日本も、70年代のアメリカのように、将来にどこか天井を感じて絶望感があるという意味では共通しているところがある。だからジョブズがテクノロジーで、あの日見た「なにか」を実現するために試行錯誤し、製品を作り出し、悪戦苦闘していく姿は、例え映画という現実に似た虚構であったとしても、色々と何かを感じるものでもある。

 そして人々が見ている将来の夢というのは、どれも儚いものが多い。
 しかし、どっこいムーアの法則だけは順調に適用されるという奇跡は続いていて、かつそれが時代を紡いでいることに思い至ると、妄想の産物であるはずのスタートレックやHAL9000的な世界が今後待っているかのようでもある。

 それより今あるもの。それはあの時あったものが元になって、今あるなあ、みたいな。
 自分の人生はどんなだっただろうか?


おまけ:
 この映画、彼の相棒ともいうべきもう一人のスティーブであるウォズニアク氏のいい人ぶりが、なんかほっとさせられる。ジョブズがわがままでイケメンでかんしゃく持ちののび太くんなら、ウォズはおっとりとしたドラえもん(四次元ポケットの代わりにすごい頭脳で、ある種の妄想を現実に動くロジックにしてしまう)のようでもある。

 

 かつてウォズニアクは米国でフェアレディZのCMに出ていたのだけど、チラっとでもいいから、映画の中で、あの「Z」を見たかったな。ここ、日産の広報が、どこかがんばれるところがあったんじゃないだろうか(笑)

2013年10月28日月曜日

私家版・夢十夜


自分は、たまに巨大な構造物の中でさまよう夢を見ることがある。というより、夢を見るときはたいていそんな感じのものが多い。

建物はどれも大きなもので、小さなもので団地からデパートのサイズぐらい。あるいは高いビルだったり、駅みたいなところだったりするぐらいのサイズ。それぐらいの大きさの構造物が通路や階段でつながっていることもある。
共通しているのはサイズのほか、後は一部が壊れていることが多いということで、何かの爆発があってガラスが床に散乱していたり、壁が崩れていたり、落書きがあったりすることだったりする。

今までに印象的な夢はいくつかあるのだけど、ひとつは巨大な建物の中に人々が暮らしていて、自分もその中の住人の一人だったりする。で、なぜか自分だけが、そこが巨大な精神病院であって、そこから隔離されて出ることができないことを知っているのだけど、誰にそれを伝えても「まさかあ」と言われ取り合ってもらえず、むしろその中での生活が当たり前に進んでいくというもの。
しかし、決してそこからみんな出られない。でもそれが誰も不思議に思わないという夢。

もうひとつは、それはまたその世界にぜひ行ってみたいと思うのだけど、そこは巨大なデパートみたいな建物が舞台。地下にボーリング場があって、さらにその地下に大きな書店もあったりする。

店には、実は通路みたいなところがあって、またそこに巨大な書架が地下に向かって薄暗く何十メートルも続いている場所につながっている。そしてその書架は、はしごで降りていけば、収められている本が読むことができるようになっていた。
そして、その書架にある本を読むと、高さに応じて時代ごとの本が収めてあって、はしごで降りて下に行けばいくほど未来の本を読むことができるのだった。

夢の中で本を読むという行為は、脳のその部分が動いていないせいか、字を読むことは読めるのだけど、それをさらに記憶するところまでなかなかできないようだ。しかし、その時はぱらっと読んで「ああ、この話は知ってる」とか思っていて、さらに未来が知りたくなって、はしごをどんどん降りていけば、降りたその分だけ未来のことが書いてある本を出会えるということを実感し、ワクワクしていた。

「どうせなら、もっとずっと下の方まで降りていこう」

自然にそう思って、はしごを降りて、どんどん下にいくと、最後、一番下まで着いてしまって、床のようになっていた。
よく見るとそれは氷のような感じで、その氷が溶ければさらに下の本を読むこともできそうだった。
つまり、書架は続いているのだ。

「ああ、ここから先の未来は決まってないんだね」

何故かそう思って、ならばと、一番下の本を手にとって開いてみたら、日本語のような日本語じゃないような、よくわからない文字で記述されていた。ちょうどこんな感じ:

 

未来はある程度決まっていて記述もできるけど、その頃の日本語は、かなり違ったものになってるのか、と思って目が覚めたのだった。

参考リンク:

2013年8月24日土曜日

組織づくりについて考える


よく「老・壮・青」といわれるように、色んな世代の人間を集めて組織を作った方がいい(確か、日本新党結党時の細川さんがそんなことを言っていた)というのだけど、実際、職場みたいなところで、色んな年代の人間がいるというときに、その中でじゃあ、プロジェクトチームを作ろうぜ、という話になったら、実際、その考え方は結果にプラスに働くのだろうか。
おそらく世代を超えた人たちが結集することで、柔軟な発想ができるという話なのだろうけれども。

自分が思うに、社会を見ていると、世代交代をする度に、どうも人々のコミュニケーションは、若い人になるほど「細切り」化されているような気がする。これはどういうことかというと、おそらくコミュニケーションツールの発展によって、人間関係のあり方が徐々に変わっていることが原因だと思う。

「呼んで、合って、挨拶して、内容を伝えて、よろしく的な挨拶をして、別れる」までの流れが、特にお年寄りの時代には、その人の家(あるいは職場)に行って、いろいろ顔を合わせて話すしかなかった時代から、最近のスマホのLINEのように、チャットよろしく1行メッセージを送り会う的な時代になるまでに、実に急激に変化していることが原因だろう。

1.その人のところに行って会う、2.誰かに電話をするとき、取り次いでもらっていないかもしれない人に何かを言う3.メールを送って時間のあるときに返信をしてもらう、4.常につながっているような形でちょっと声をかけるぐらいにメッセージを送りあう、という形に社会のコミュニケーションの形態は進んでいるようなのだけれども、この数字が小さいほどに話の内容は濃密に、かつ長く、時間を取ってもらうことに対して礼儀が必要になっていく。一方で、いつでも好きなときに誰かのメッセージを受けられるようになると、今度は気軽に、言いたいことを要点だけ送り、余計な礼儀が装飾品のように邪魔になり、やりとりの回数が親密さをもたらすようになる。

こういった文化的ギャップのあるメンバーがひとつの組織に一緒くたになると、お互いがお互いの文化になじめず、ひとつのチームを作って交流する、ということがむずかしくなるような感じなのだ。

確かに色んな世代が一緒にいて、その中で濃密なコミュニケーションができるというのはプラス面が多いのかもしれないけれども、このプラス面を発揮させるには、そのチームを構成するメンバーが共有できるコミュニケーションのプラットフォーム、あるいは文化、を確立する必要があると思うのだが、お年寄りは「私は機械が苦手だ」と言って情報共有の機械化(高度化)を阻害するし、若者は「つか、無駄な挨拶とかぶっちゃけ面倒じゃね?」という社会性のなさを発揮して炎上の原因になるしで、皆が協力して大きな仕事を成すためには、まずメンバー選びから慎重にやんなきゃダメだな、と思った次第なのでありました。

ちなみに、老・壮・青で組んだはずの日本新党は、その後、数年を待たずに瓦解し、新進党の前身になりました(苦笑)

2013年7月20日土曜日

参院選について考えてみた・・。

いよいよ参院選の投票日が近づいてきた。なんか政治とことを横目で見ながら色々と考えていて、世間ではネット選挙が始まり、そして選挙関係者の誹謗中傷合戦を眺めていた。

そんな世間を眺めていたら、自分としての結論は「選挙なんか、別に誰が誰に入れてもいいんだ」という、結論に達した。
好きな人に入れればいい、と。もし今回の選挙で比喩的な意味でのヒトラーが出ていれば、そいつに白紙委任状を書けばいいんじゃないの、ということでもある。

さて、どの候補者も自分が当選したいと思って選挙活動をしている。(泡沫候補は別かもしれないけど)
選挙はゼロサムゲームに近いから、他人の票が減れば、自分の票が増える。対立候補の票が、自らの陣営に来れば、相手のポイントがマイナス1点、自分のポイントが1プラスだから、2点ゲットできるということで、誹謗中傷合戦になる。

一般に誹謗中傷が大量に出るのは、良くないことだとされているのだけれども、自分はこれで本来の形に戻ったと思うのだよね。
なぜなら、政治の本質は権力闘争だから、本来、誹謗中傷のような情報がまったくないクリーンな情報だけで候補者が投票できるなら、共産主義における計画経済のような社会運営の方が効率がいいはずだから。
世の中が正しい情報に満ちあふれていて、誰が正しい判断ができるのかが先にわかっているなら、その誰かにすべてをゆだねた方が、はるかに効率はいいはずだよね?

感情と個々が利益を争う仮想的なサバンナのような場所で暮らす動物、としての本性が抜けきらない僕ら人間、が集まる社会においては、誰もが自分の利益を最優先にする。
誰かが得をすれば誰かが損をするなら、自分勝手にお互いがお互いを食い物にして、人が人を騙して利益を得て、他人に苦しい仕事を押しつけて、楽に暮らして自分だけは幸せになろうとするものだ。ノーメンクラツーラってやつね。

だから、社会に多数決というものを持ち込んで投票で決めようじゃないか、ということになった。ならば、そんなワイルドな感性で決断を迫られるなら、もともとゴチャゴチャした誹謗中傷合戦の中から、気合いを入れて自分の好きな意見というものを見極めた方がいいと思うんだ。それが本当の平和ボケからの脱却ってもんじゃない?

何も別に平和を乱すものは、外国が軍隊を送り込んでくることじゃない。
年3万人も自殺するという状態のこの国は、すでに人々が精神的な内戦を戦ってる戦時と別に変わらないんじゃないかと思う。銃で撃たれて死ぬ代わりに、自ら電車に飛び込んで死んだりする戦争だ。

むしろ、これをきっかけにするべきことは、「コントロールを取り返す」ことだと思う。
CMとないまぜにしながら、社会の為政者が無料で垂れ流すテレビ番組を漫然と見て、わかったつもりになってるのはよくないことだと思わないとね。彼らはスポンサーに不利なことは言わないでしょ。誹謗中傷合戦、ゴミ情報の海から砂金を取り出すんだ。

コントロールを取り返せば、皆、自分の利益や立場やその他もろもろを考え始める。そして賢い意見もあれば、愚かな考えもあるだろうけれど、そういったものをぶつけ合っていけるなら「別に誰が誰に入れてもいい」と思うんだ。みな、自分の立場と利益を勘案して、自分の好きな政策を選んで、それで多数決で決まるなら、それが天意というものだよ。それで間違っていたなら、みんなで滅亡すればいいじゃんということだ。

やっちゃいけないのは、「おまえバカのくせにそんなこと言ってるの?」的な言説に負けないことだと思うのだよ。
これに負けるというのは、他人の奴隷になるのを選んでも構わないということと同義だからね。

さて自分が思うに、もう日本のシステムはかなり古くなっていて、その負の遺産が今の停滞時代を招いているように感じるんですよ。そんなこともあり、ちょっと考えを書きたいのだけど・・。

自分は結論から言うと、まず原発には反対だ。だから、それを推進する政党も支持しない。
その理由は箇条書きで行きたいと思う。

1.危険性の放置。福島で原発が爆発したけれども、その収束が未だ見られない。原因も未だはっきりしない。こんな状態でこのまま原発の行政を維持するのは危険だと思うから。活断層の上に原発を作っている話とか、アタマが狂っているとしか思えない。
2.経済性の問題。今の原発システムは、使用済み核燃料を再処理することが難しいし、この先の改善もあまり見込めない。したがって原発を維持することは、この使用済み核燃料を数万年オーダーで保管する必要があり、これは発電時のコストが安いとしても、長期で見てコストにまったく見合わない。
3.責任者不在の問題。結局、東京電力の社長も会長もこれでクビになることはなかった。結局、何かあったとき、誰が責任を取るの?音声のない東電テレビ会議、何あれ。

原発を維持するメリットっていったいなんなんだろう?一時的に安くて安定的な電気を得られる企業が得するだけじゃないかとか。あるいは、そういうハコを作って儲かる企業群か。

もちろんその後始末は、国の税金でやるということだから、これだと他人の払った税金で、自分の金儲けを有利にしようとしてるだけじゃん、という感じでもある。
会社はなんか最高に長期で5年先、1年を四半期で分けて儲かっただの損したの経営者はクビだの言ってる世界だ。
そんな人たちが数万年オーダーで処理を考えないと設置できない今の原発を求められてもね、という。

さて実は、今回の憲法改正にも反対。だからそれを推進する政党も支持しない。
これも理由は箇条書きにしたい。

1.そもそも何で今、憲法を改正しないといけないの?
2.憲法というのは、元々為政者の権力の暴走から一般国民を守るためのもの。それを為政者が自分たちの都合で緩和しようというだから、そら恐ろしい感じがする。96条は、この憲法は簡単に変えちゃいけないよ、という手続き論の部分。そこに最初に手を付けてくるところに姑息さを感じる。
3.自民党の憲法草案が、人々を国家権力が抑圧することができるような、完全にアナクロの産物であること。96条を改正したあとに、次にこんな改正をするなんてことを考えているなんて・・、考えただけでもそら恐ろしい。もし、この自民党の作った憲法が日本の憲法になったら、この程度のブログを書いても、おそらく特高がやってきて、僕は起訴されることだろう。

憲法は一種のリミッターであって、国会議員が何か好き勝手に法律を作ろうとしても、それに限界を設けているシステムで、崖に人が落ちないように設けてある柵みたいなものなんだけど、今、その柵を取り払おうとしているのだよね。

例えば今の憲法では「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」とか書いてあるのだけど、これを例えば、日本が他の国と軍事的にぶつかったりしたら、テロの危険があるからとかなんとか言って、憲法を改正して「公共の利益のためを除き(みんなの利益のために)」検閲はしてはいけない、と変えたりすると、その公共の利益っていうの便利な言葉を使って、役所がやる仕事は、みんなの利益だから公共の利益でしょ、みたいな話になる。
そうすると国家が盗聴したり、社会の不正をあばく出版物を作れなくすることだってできるようになる。
恐ろしいことなんだ。

最後に、この前、テレビを見ていて驚いたことがあるんですよ。
ある自民党党三役の一人(女の人で野田さんじゃない方)が、憲法を議論する番組に出ていた。そこで彼女が言っていたことは、「今の憲法には不備がある。なぜなら今、総理大臣が欠けても、その時どうするべきかも書いていないんですよ」と言っていたことだ。
「ぇつ」って耳を疑う感じだった。この人、法律を作るのが仕事の国会議員で、しかも自民党の幹部である党三役の一人なのに、法律の基本構造がわかってないんだ!?という。

そういうことは、内閣法とかっていう別の法律で定めて、その中で決めればいいことだし、それは国会議員たちが国会だけで決めていい部分だからだ。しかも突然総理大臣が欠けて右往左往する事態っていうのは、小渕総理が脳梗塞で倒れて、結局森総理が後継になった時、それが密室で決められたと批判を受けたことを念頭に置いているのだろうけど、憲法は上にも書いたとおり権力の暴走を防ぐリミッターだから、「衆議院議員であると同時に参議院議員になっちゃダメ」とか、そういうルールは定めているのだけど、総理大臣が欠けたらどうするとかいう、そういった細かい手続きは一般の法律に委ねる構造になってるわけ。なぜならそういう細かい部分までも憲法で定めようとしたら、とてつもなく条文が増えてしまって、同時に改正もままならなくなるから。

さらに言えば、上記の事態は自民党内で起こったことだから、その事実を踏まえて法律を改正して改善していないということならば、自民党がその部分で仕事していないっていうことを示していることでもあるのに・・・、という二重の失言をドヤ顔で語ってるところに驚いてしまった。こんな基礎的なことも知らない人が役職に就いているような自民党もなあ・・。

もう忘れてるかもしれないけど、前回の安倍政権じゃ、農水大臣も謎の自殺を遂げてたりするんだよ?おまけに今回は自分のところの従業員が過労で自殺しても労務管理で問題なかったと言い切ってしまうブラック企業のワタミ前会長も公認しちゃうし。

確かにウソばっかりのマニフェストで無事消費税導入も果たし、憲政史上に汚点を残した民主党に投票する気はあまり起きないのだけど、今の危険きわまりない自民党にもとても投票できないよ、と思ってしまった。

でもまあ、最後は自分で考えて自民党がいいっていうひとは、それで投票してもいいんじゃないの、とは思うのだけどね。

投票は、個人に与えられた権利だからね。

共産党に投票するというのは、さすがに抵抗があるのだけど、今回ばかりは結構票を伸ばすかもしれないね。