2011年1月25日火曜日

物より思い出?

マーケティングというのをちょろっと学生の時にやっていたのだけれども、どうも自分にはなじめなかった。市場分析というのは良いと思うのだけれども、例えばエスキモーに氷を売るにはどうすればいいのか?等という問題に当たったりするにつけ、「相手にとって必要もないものを売りつける方法を研究しているのでは?」とか「これは悪の心理学なのか??」と思えなくもなかったことがあるからだ。

某ブログのコメント欄にいい意見があって、「マスコミの仕事のうち、ジャーナリズムは極一部であり、その他ほとんどの仕事は資本主義の広告塔としての仕事です。」という一文があって、これはその通りだと激しく共感してしまった。

今、世間一般の人々の常識や行動が、マスコミのバックにいる「スポンサー」にとって有益か否かという尺度でマスコミに踊らされているというのは確かにある。

沢山消費をしてくれる層は、スポンサー様にとって有益だから持ち上げられる。例えば大食い番組や、お高いお洋服をどんどん買う人達なんかは、どう考えても下品な番組のはずの「もったいない」あるいは「ばちあたりな」浪費だと思えるその行動を見ても、特に叩かされるということはないのだけれども、一方でそうはならない草食男子やら、鋭く商品のアラを探すオタクな人間はマスコミによって叩かれてしまう。一方、2ちゃんねらーなどは「スイーツ(笑)」等と言葉を作ってマスコミに踊らされている女子をけなしてスッキリしたりしている。

特にマスコミ側から叩かれるのは、もう資本主義とお別れしているようなニートのような存在なわけだが、本当に「けしからん」「存在すべきじゃない」ような扱いになっている。そして、その反発心が「働いたら負けかな」、などと彼(のようなニートの人々)に言わせるのだろうか。

マーケティングそのものは否定する気はない。特に需要の喚起とか、本当に人々が欲しい商品は何か分析するとか、どう情報を伝達するべきかとかというのは、大いに研究するのは構わないと思うけれども、別に必要もないと思うから消費に向かわない人や、そもそも社会的弱者になったせいでよい消費者になれないという人を叩くのは、やり過ぎと言えるんじゃないだろうか。

虚栄心につけ込まれて高い服をどんどん買う女性が現れたり、乗りもしないクルマを高い金を出して維持したりするのは、やはりやめるべきなんだろうと思うけれども、そういう行動を取る人たちの気持ちも何となく気持ちもわかって共感もしてしまう自分もいる。

もう既に喰いすぎてメタボな域に達している我々が次に消費するべきと向かうのは、誰かとの思い出作りなのだろうか。あるいは人間関係で上位に立つために人は人より高価な物を買おうとしているのだろうか。そもそも消費とはどうあるべきか、幸せってなんだっけ?の哲学時空に突入しそうな今日この頃である(笑)

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