2010年11月21日日曜日

抽象化されゆく人間関係とその未来

 人間が人間であるが故に、言葉による戦いを行うようになった。

 草原、サバンナやジャングルにおいては、弱肉強食を行う動物たちが生き残りゲームをやっているように、かつては人間の祖先達も猛獣のエサであったりした時代が長く続いてきた。

 しかし時を経て、人間は地球上で最強の動物となり、今もなお他の種を滅ぼしながらその数を増やしている。言葉によって仲間を作って自分より強い存在に戦いを挑んだり、武器を作り方を伝承したりできるようになったためだ。

 結果、さらに多くの資源を得るために、人間は人間同士で戦うようになったが、一方で強すぎた人間という種同士の戦いでは、戦うことによってお互いが大きな痛手を負うために、結局はどこかで折り合いを付けるということになった。

 それでも、かつては人間の数や、武器の強さ等で戦い合ったが、核兵器までが開発されるに至った今日においては、そうおいそれと武力衝突をするわけにはいかない。それは戦いが起こればその起こした張本人に死が訪れる確率が非常に高くなったことや、戦いが起こす環境破壊によって、その戦いによって得られるメリットがすでにデメリットよりも遙かに小さいものになっているからである。(なので、発展途上の国々に絡む小競り合いや、テロ行為は続くことだろう。)

 現在、その主戦場は、もはや言葉の世界にある。どちらが社会において共感を得られるか、得な人間が増えるのかのゲームであり、時に自説を振りかざすために、小難しい数式や理論などを持ち出す人間も多いけれども、実際には、その意見において共感が沢山得られなければ意見そのもののパワーを持つことが難しいため、簡単でありながら、説得力を持つ、また反論に強い意見を持つ人間が結局のところ世間の舵取りを任されることになる。

 例えば裁判や宣伝活動など、時に強制的に人を動かすに至るためには、言葉による説得と納得の世界の出来事になる。
 その場では平等さや公平さが求められるため、法律などの「ルール」が事前に設定されるに至る。

 そうすると、世の中を動かす人間は、どこに存在するのかというと、「言葉の定義」の世界に生きるということになってくる。

 例えば、「刑法」という法律に「殺人」というものを入れると「死刑」というものが出てくるが、ここに介在するのが弁護士や検事、そして裁判官がいる。同じように人を社会において殺したとしても、「情状酌量の余地がある」とかなんとか言って、「殺人」であっても、色々なレベルのものがあるんだと言い、その事象において、解釈を加えてくる。その解釈の結果、本当は死刑になるところがならなかったり、何かの証拠を、証拠として決めつけることで、無実の人を死刑にして殺すこともある。

 「情状酌量の余地って、単にお前がかわいそうに思っただけだろ」「反省が見えるって、何じゃそれ。オレには何にも見えないぞ」とか色々とつっこまれつつも、結局のところ、法律というか世の中のシステム、あるいは関数のようなものに入れるパラメータの入り口で解釈をいじくって結果を操り、自らが欲しい結果にする、それがこの世の中の勝者、あるいはエリート、というやつなわけである。
 しかし、そうであるとすると、今度はエリート同士の戦いが起こったときに何が起こるかということになるが、たいていの場合、棲み分けができているが、時として、その定義部分の解釈を巡って争うことになる。ここでは、幼稚園と保育園はどっちが子供を育てるのにいいでしょうか、とか、いや一緒には絶対できません、とかいう訳の分からない戦いになったりする。

人間の感情は今後どう変化していく?

 ここでひとつ問題なのは、元々人間というか、動物が自然的に持っている「感情」というものがある。
 例えばある価値あるものを巡っていくらかの人間が衝突したとして、感情に振り回される人間は、はっきり言って不利な地位に置かれると言って良いだろう。まず感情的になった時点で言葉の戦いで相手に攻撃を行うための「理屈」を紡ぐことができなくなるし、感情的に他人を害する存在というのは、この抽象化された社会においては単なる害悪として処理されるからだ。その理由は暴力が野放しになると社会が維持できなくなるためである。

 そこで、まずは感情をコントロールし、自らが生きるフィールドの中で得られる価値を敵と取り合う、言い換えれば「戦う」わけだけれども、そこでは、特に抽象化された言葉によって、自分の行動が全体の利益になるとかなんとか言って、相手が動員できる「共感パワー」を超えなければならない。
 軍隊や警察などの暴力装置自体が、社会のためのシステムと統合されてしまった今日においては、もはや暴力は役に立たず、抽象的な言葉によって他人を意のままに動かす人間こそが天下をとるようになるからだ。

 しかしこれとて万能とは言えない。言葉を発さず、あるいは理由がなく、ただマイナス感情に裏付けられた無差別の暴力(テロ)は、そこで天下を取ったつもりの人間を一瞬にして抹殺することもあるのだから。そのためには仮にうまくいっていても無言の悪意には気をつけなければならない、ということになる。

 こうして考えてみると、人間という存在自体が、ある特定の「形」に向かって強力な淘汰圧をかけられているような気持ちになる。

 暴力を好まず、感情は抑えつつ、言葉巧みで、人からは好かれる、という。
 未来人はそんな人間ばかりになるのだろうか?

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