2016年12月31日土曜日

2016年を振り返って…

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屏風ヶ浦(茨城県)

今年は穏やかなよい年だった。個人的には大きな病気も事故もトラブルもなかった、と思う。
来年もぜひそうあって欲しいと思った。

しかし、将来のさまざまな大きな出来事のきっかけみたいなものは、あれこれとたくさん起きたような気もする。出会いと別れ、出来事…、など。

プライベートにおいては、なんだか今年は、海に行った年として記憶されるような気がする。
どの海も、とても空模様が印象的だった。

願わくば、来年も大切な人たちと、新しい風景に出会えるような、そんな一年であって欲しい…。

皆様、よい年をお迎えください。


2016年12月14日水曜日

運というものは結局なんなのか

一畑電気鉄道
一畑電気鉄道の車窓。 宍道湖(しんじこ)が見える。

先週末、島根と鳥取に行った。毎年行っている学生時代の友人たちとの旅行。
縁結びで有名な出雲大社がある。

縁結びというと結婚する話ばかり思い出しがちだけれども、実は人間は社会的な生き物だから、毛局幸せをつかもうと思えば、良い縁(人間関係)とつながるしかないのだよね、ということに気がついた。

もちろん、才能(能力)などが成功の源泉であるとは思うのだけど、それはあくまで社会とかみ合ってはじめて力を発揮するものだから、その力を発揮できる場にいるとか、あるいはその縁につながるための行動が有効だと思うわけね。古今、才能はあるけど成功はしなかった偉人の物語は枚挙に暇がないけれど、それはやはり周りとのかみ合いの問題であったり、一方、成功者の陰にはそれを支えた人がいたりするわけで、そこら辺、ちょっと来年はテーマとして考えてみようかな-、なんて思った。


鳥取砂丘
鳥取砂丘。高い丘に登ると下に砂浜が見えて人が小さく見える。(結構距離あります)

今回は国道9号を使って、松江から境港経由で鳥取まで行ってみた。
両側一車線の高速道路のような自動車専用道路があって、これはそちらの方までずっと無料区間なので、そちらを利用。
途中、雹が降ったり、はたまたお天気になって、さらに天気雨…みたいな割とあれたお天気だったけど、さすが出雲国からはじめたルート。
出雲!って感じです。

白兎海岸
因幡の白兎で有名な白兎海岸。かわいい名前とはうらはらに「神話の舞台」という趣。

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お天気雨。すごい豪雨。

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夕方、でかい虹が出たよ!なんかいいことありそう。

2016年12月7日水曜日

リアル知り合いとSNSでつながるべきか



銀座

最近、mixiが10年前の日記をランダムで公開する機能を実装した。
昔の気が置けない知り合いとの、アホなやり取りが懐かしい感じだった。

この機能を見たきっかけで、この投稿のタイトル通りのことを考えたのだが、実際、リアル知り合いとSNSでつながっていくと、どういうことが起きるのだろうか。

まず、SNS上で展開されるやりとりは、基本的にフラットな人間関係であり、思ったことややってみたことが、そのまま書かれているものが多く、またそういった記事こそ読んでおもしろい。

いかにもその人の本音に触れたようでもあるし、相手がわかったような気持ちにもなる。

しかし、リアル知り合いは気楽な昔のmixiのようなSNSにおける人間関係と違う。

例えば職場では上司部下的な人間関係、あるいは学校では先生や先輩後輩などの関係性、つまり、その社会における上下関係がある。

それを無視して一緒にしてしまうと、SNSの醍醐味である本音トーク的なものや思いつきやら、下らない言葉遊びといったものが減って、さらにその人との個人的な関係だけならおもしろいだけで済むことがそうならなかったり、嫌いだから関係性を削除するというお手軽さも失われることになる。

また、おもしろいアイディアだからといってそれを皆の前で発表してしまうと、ときに今の職場や学校の環境を否定していると思われたり、あるいは後輩や部下があまりに優秀なアイディアを発表すれば、上の立場にいる人間がリアルでも自らの立場が脅かされるのではないかと感じて圧力をかけたりする可能性もあるし、逆にそうされるんじゃないかと萎縮してしまって、思い切ったことが言えなくなってしまうこともあるのだと思う。

つまり上下関係がときに破壊されることがある危惧が、個々のメンバーの活動に影響を与えるんだ、ということなのだよね。

だから、そこは裏アカや鍵付きの匿名アカウントを作って、小さいコミュニティの中で楽しくやっていくのもまあ、それはそれでSNSのいい楽しみかたかもしれないよね。


2016年12月5日月曜日

年の瀬

新橋駅の機関車
新橋の機関車

今年もおかげさまで、ここまでは平穏に暮らすことができている。ありがたいことだ。
しかし、一方で前途多難さを感じることもあるね。

あと少しの間、無事に過ごせますように…。

2016年12月3日土曜日

テスト投稿

何年も放置していたこのブログですが、たまには何か書こうかなーとか思って、開いてみました。

ふむむ…。

というわけで、ちといじっている。

…今日はもう本当、お仕事というか連日の作業で、 疲れてしまったので、家でのんびりしている。

で、この放置してるブログも消してすっきりしようかなーなんて思って、ちょっと読み返しはじめた。

で、もう何年も前のコンテンツを眺めていると、なんていうか同じことばっかり書いていることがわかった。

で、このGoogle様のBloggerが若干アプデされていたみたいで使いやすくなっていたので、消すのはやめて、もっかいここをいじってみることにした。

さらにデータもXMLで吐き出し可能になっていたので、作り直していたブログと連結してみた。

色々見てみたのだけど、昔使っていたお気に入りだった写真サイトのflickr。古いコンテンツのリンク先の写真は残っているのはいいんだけど、今ちょっと開いてみるとサイトの動作が異常に重かったりしているので、ここだけどうしようかなーなんて思っている。

微妙にフィルターかけてくれるおかげで、きれいに写真が表示される良いサイトだと思っていたのだけど、なんか向こうのYahoo!がいまいち色んなことがあったりして、その傘下のflickrも若干サーバ環境で影響受けてるのかなーなんて思ったりしている。

写真サイトは別にして、他のブログサイトで作り直してみるかとも思ったのだけど、もうしばらくここ、Bloggerを使ってみようと思った。


2015年11月29日日曜日

音、聞こえる?

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職場近くに新しいビルがあって、そのビルの入り口周辺では鳥か、あるいは若者を追い払うためか高音が鳴っている。 (チチチチチチチチ・・みたいな音)
この音は若者にはうるさいぐらい聞こえるそうだが、老人はまったく聞こえないという。

おそらく若者(子供)がたむろってくるのを避けるためにやっているのだと思うのだけれども、最近なんか急にその音を感じる力が弱くなったような気がする。

よくmp3は人が聞こえない高音域をカットし、データを圧縮することでファイル容量を小さくしているというのだけど、若者ははっきりと可聴域が広いからその劣化がわかるんじゃないかな?とか思った。

で、今はやりのハイレゾオーディオって実際、若者でないと本当の意味では楽しめないんじゃないかな、とか思った。

2015年10月8日木曜日

私家版・夢十夜2 猫の皮を被ったなにか

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先日、かねてより再び訪れたいと思っていた、埼玉の奥秩父にある、三峯神社に行ってきた。

その場所に行ったのは3回目。本当に山の中で、風が涼しく訪れた当日は天気も良かった。

 霊験あらたかな場所です。
道路はわりと空いていたというのに、クルマで片道約3時間ちょっとかかる、ちょっとスピリチャルな場所。

そこから帰って、その夜に見た夢。

今回の舞台は古い秩父のような昭和の雰囲気が残る街の、古い木造アパート。2階に上るには老朽化した鉄骨階段を使わないといけないような場所。


そこを誰かと(自分の他二人ぐらい?)歩いていて、自分がその階段をのぼりおりしてると、数匹の猫が自分の周りに寄ってくる。

その中に一匹だけ、白い、血だらけのチンチラのような猫がいて、さらに自分に寄ってきて、付きまとうので軽く抱いてみると、すごく深手を負っていて、傷だらけの白い身体に赤い血がたくさん付いていた。

かわいそうに、と撫でていると、何故か「ああもう死んじゃうんだな」と思って、急に悲しくなって涙が出てきたのだけど、撫でているうちに満足そうな表情になってきたので、泣きながら「こんなものでいいのかい?」とか猫に話しかけていて、そのうちその姿はなくなってしまったような…(この辺の記憶がいまいちない)…感じだったのだけど、あとで「あっ!」って思って、ああ、この猫、猫の姿してるけど、本当は猫じゃなくて、この世にさまよってた魂だったんだなぁ、誰かに看取って欲しかったのか、と気がついて目が覚めたのでした。

結構泣いてた(笑)

どうもスピリチャルって人をだますところばかりクローズアップされがちだけど、これ感情の問題なんだなって思った。もっとも、感情に流されてだまされることが多いんだよね。世の中。

2015年9月15日火曜日

秋…

今年も早いもので、もう下半期がスタートしてしまった。
今年はおかげさまで割と平穏な年であって、大きなトラブルもなく推移している。
家族もそれほど大きな病気とかそういったものもなく推移してる。

ここのところ、Twitterを眺めることが多くて、知り合いたちと@メンションを飛ばしながら毎日を何となく過ごしているのだけど、一方でブログみたいなものも書かなくなってしまって、立ち止まって考えをまとめるっていうことをしなくなっちゃったような気がする、ので、ちょっと投稿。

運動は習慣化できたので、次は少し勉強する習慣付けたいなーなんて。

今年は良い年。秋風が気持ちよい。

2015年5月16日土曜日

健康作りはPCの環境設定のように…

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同じスペックのパソコンを買っても、快適な環境を構築している人と、なんだか重たい環境でマウスやキーボードに当たり散らす人がいるのだけど、同じハードウェアを使っているはずなのに、どうしてこういう違いが出るのだろう?

その理由は、簡単に言うと、重たい、あるいは使いにくいは余計なプログラムやデータをインストールし過ぎているからなのである。その本来なら不必要であっても、なんかそのプログラムやデータを入れることでさらにシステムが強化されるような錯覚に陥っているからだ。つまり、ユーザーの意識(こうしようという気持ち)がシステムに反映している。
大事なことは、リソース、つまりCPUやメモリなどなどは有限だ、ということに気がつくことじゃないだろうか。すると、取捨選択をして、不必要なものについては捨てる、というプロセスが重要になる。

プロセッサーの能力を超えた課題を与え続けると、システムは破綻する。
同じように身体についても同じことが言える。人間の身体も単純に言って、処理能力には自ずから限界がある。だから、食べ過ぎ、やり過ぎには限界があって、それを超えるとシステムが破綻してしまう。病気になる。栄養分の取り過ぎによる生活習慣病や、情報の取り過ぎによる精神疾患は、まずはそこが原因である
よって、その「取り過ぎ」をどうやって避けるかが、実は重要な課題である。

PC設定や健康や精神だけではない。家の中に使いもしない不要なものを溜め込んだりするのも良くない。モノがあふれて身動きが取れなくなることもある。

これらモノや情報をたくさん持っていれば豊かになるという発想は、これまで人類が何万年もモノ不足の中で生きてきた遺産であって、それを所有するより得ること自体が大変で、一方、所有コストに関してあまり考えなくても良いという長い長い時代の歴史の名残である。しかし、この爆発的に進む世の中にあっては、自分にとって必要か不必要かもわからないようなモノや情報があふれ始めている。それを処理するためのコストが、無視できないところか破綻の原因になるところまで来た時代にさしかかってきてはいないだろうか。

特に情報と食べ物(カロリー)に関しては、この処理コストは考えてみれば馬鹿にならないスピードで増えていて、一方でそれを維持、管理、あるいは処理するプロセッサーとしての人間の身体というのは昔の処理能力のままなのだから、廃棄することを意図的に考えていかないと、色々な部分で破綻の原因にすらなり得る。
ちょうど、太りすぎて糖尿病になって身体の一部が腐ってきたりするような…、とにかく入ってくるモノを処理する能力を上げるか、入ってくるモノを制限するか、入ってきたものを取捨選択して捨てていくか、いずれかの選択を要求されるだろう。
ならば、取捨選択能力を鍛えて、自らの処理能力内で必要かつ最も価値の高く日々の過ごし方って何だろうか?と自らに問うのは悪くない習慣じゃないだろうか。

…それでもなお、ご飯を食べずに廃棄するって抵抗あるけどね。

2015年1月18日日曜日

引っ越しして、土地について考えてみた

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 去る11月、10年以上住んでいた部屋を引き払って引越をした。と言っても別に感傷的にはならなかった。何故ならばフロアを移動しただけで同じ建物内で移動したからだ。
 
 だから部屋の広さは前と変わらないし、窓から見る景色もあまり変わらないし、出勤して乗ってるエレベータも同じだし、定期もそのままだし、買い物に行くスーパーもそのままだ。つまり生活感は変わらない。家に帰るときにエレベータで押すボタンが違うだけだ。
 
 それでも、引越はとても気分転換になるものであって、それまで何気なく気になっていた経年劣化による配管の劣化による水漏れとか、あちこちの汚れは一掃されたし、一回丸ごと引っ越しすることによって、かなり不要なものをたくさん捨てることができて、身軽になれた。敷金もそれほど目減りせず、リフォームするよりお金もかからなかったのだから、良い結果だったと思う。
 
 もう自分は年齢をかなり重ねてしまっているのだけれど、家を買うということについては、どうも消極的なことしか考えられなかった。
 本来なら家庭を築いて家を買い、子供を育てながら住宅ローンを払うのが、日本の男として生まれた人生の本来のコースなのであろうけれども、ちょうど20年前の阪神大震災の、あの高速道路が倒れた写真を見て、それから睡眠が浅いせいかどうなのかはわからないのだけど、巨大な建物が壊れて崩れた夢を見ちゃったりなんかして、深層意識的にどうも巨大災害が気になっている自分がいる。
 不動産を持つっていうことに関して本来的に臆病なのかもしれない。
 
 実は僕の父親は、僕が中学生のときに家を買ったことがある。それは地方の一戸建て、広くて快適だったけど、結局そこも3年間しか住まなかった。地方に家を買った理由は、母の父、つまり母方の祖父が寝たきりになって介護が必要になったためで、父は一種のプレゼントだと言っていた。父自身は東京に留まったまま、その家にはたまにしか帰らず、やがてその母方の祖父も亡くな、結局一家で東京に戻って賃貸住まいに戻ることになった。
 
 一方で、よその家庭を眺めていると、バブル前からバブル期、そしてバブル崩壊に至る時期、その地域に彼らの親が一戸建てを建てて暮らしていたたちは、割と高度成長期の地価高騰によってキャピタルゲイン(資産の値上がり益)による利益を得ていたようだった。
 
 もしも日本の国がずっと成長していれば、そういった日本の成長に合わせて資産価値が上がることによって、家を借金で買って、日本の国が成長することによって土地の価値が増し、その家を売却することによって資産運用に、最後おつりが出て完了するという、とても美味しい運用ができた。実際にその成功体験の記憶がまだ結構、世の中に残っていたりする。
 
 ところが90年代のバブル崩壊以降、この流れは完全にとまってしまった。土地の価値が上がらなくなってしまったのだ。よって、ここで土地によるキャピタルゲイン狙いはできなくなってしまったのだった。
 
ここで僕が家を買いたくない理由を並べると:
1.大地震のリスク(阪神淡路、東日本大震災を考えると、だいたいこの国では20~30年に一回、どこかに大災害が来るようなリスクがあるような感じ。戦争などもこの範疇に入るのかもしれない。)
2.父が地方に家を買って住んでみた印象から、ある土地の人間関係に縛られると、とても暮らしづらいという印象があること。都内だったら移動して人間関係のリセットが簡単、というか、そもそも自分で人間関係を構築していかないとかなりさびしくなるのが東京という場所柄。それに慣れちゃっている。
3.これからの人口減少による不動産価値が下落するだろうという自分なりの予想があること。但し、中国人などの外国人が資産運用目的で、土地を買いあさってくるかもしれないので、こと高級物件に関しては、ちょっと意味合いが違ってきてくるのかもしれない。
4.ただもう日本は、本来的にもうすでに住宅建築を必要としていない。それは今の空き家問題として顕在化してきているから、早晩、特に日本の中古住宅市場は崩壊するだろうと思っている。そしたら、割安になった物件を買ってもいいかなとも思っている。
5.技術の進歩による建築技術の発展。これによって容積率が大きく内装も近代化した物件が今後たくさん登場することが見込めるため、古くてアスベストまみれの建物の価値は競争に負けて、今後も価値がすごく下がっていくと思われること。
 
後は、買いたくない理由とは別に、将来はすでに既定路線になっている部分もあるので、それを、今の時点でまとめてみると:
 
1.今後、民法の大改正が待っているらしい。
2.外国人(特に中国人)が日本の不動産を買おうとしてる。
3.日本の高齢化がますます進み、高齢者が持っている物件が塩漬けになっている。
 
 安倍政権になる前から民法の大改正があるという話はちらほらあって、おそらく憲法改正とかと同じ流れで考えているのだろうけど、日本の社会の形を大きく戦後体制から変えていこうという発想の下に動いている一環なのだろうと思う。で、結局、おそらくその方向軸は、私権の制限だろうと思うのね。
 
 日本の土地法制は、戦後、圧倒的に弱者だった借り主を保護するためという事情があったこともあって、とても土地建物(特に建物)の借り主に有利にできている。しかし、そのせいで特にバブル期には土地への居座りとかが結構起こっていた。これはかなり土地の効率的な開発を滞らせる原因になるから、何かしら国家権力や行政の力が行使しやすい方向になっていくような、そんな感じがする。
 その後、バブル期には、その情勢もあって大きな不動産物件をたくさん作ろうとした。しかし、それには広く土地の形も整理され、そして権利的に整理された更地が必要になり、そこにお金が集まったことで「地上げ屋」がたくさん生まれた。当時のマスコミは、その地上げ屋のバックにいたのが暴力団だったりしたことが多かったこともあって、徹底的にそれを叩いていた。
 そうしたことで、うまく土地の形を整理するという職業の人は、世間的には悪いやつとして扱われることになった。地上げ屋のターゲットになった方も、もうちょっと居座れば、自分の土地が高く売れるだろうという目論見もあって、結局、双方がこのチキンレースに勝つことができず、結局、バブル崩壊という喜劇によって、結果、ヘンテコリンな地形土地利用の建物ばかりが東京にあふれることになってしまった。
 
 しかしあれから幾年月。そこに住んでいた人たちも歳を取って亡くなり、日本の都市部の土地には、権利的にかなり断片化されたままになって、誰が持ち主なのかすらもわからないという状況になっている。おそらくこのままだと、さらに少子高齢化の影響もあって地権者が誰かもわからず、細切れの権利関係が複雑になっていって土地が死蔵されるのを、強い政治力を持ってる金持ちたちがぼんやり指をくわえて見ているとは思えない。
 さらに景気対策として、資産家や外国人が資産として売買できるような物件を日本の中で揃えていくには、今ある、この細切れの土地の権利関係をすっきりさせ、都市計画を仕切り直して、使いやすくて資産価値のある場所にしていく必要から、法改正の話が出てくるはずだ。
 何が言いたいかというと、日本の土地のデフラグが始まるだろう、ということだ。
 
 他にも災害対策の必要性という部分もある。最初はマスコミでそのことを前面に出してくるだろうと思う。
 そして結果的には、細かい木造住宅みたいなのは都市から一掃され、道路が整備され、みな巨大な建造物が林立するような町並みに変わっていくだろうということ。そうなると、今、半端な家を買っても30年後に、そういった巨大なタワーマンションとの価格競争になる以上、どうみても資産形成上は不利、ってことになるような気もするのだよね。
 
 さらに言うなら、国を運営する人たちからみたら、日本の資産をいわば、オリンピックでも何でも使って「近代化」させない限り、アジア地域の経済的な中心地としての位置を保てないという側面もある。
 すでに中国を中心とするアジア地域の都市は、人口的には東京よりも巨大なところがあるし、東京より高い建物をばんばん建てている。そういったところよりは、政治の安定や個人の権利を保障した法制度を持っているというメリットのある国の都市として、魅力的には映るけれども、一方でぼろい建物で、しかも巨大地震が来てすべてが崩れるかもしれないという形にも見える。
 
 日本の金持ちのみならず、世界の金持ちが投資先を探しているから、その趨勢にはおそらくこの国の都市も抗えない、けど、それによって逆に美しくて機能的な、超先進的な都市に変貌するチャンスになるような気もしないでもないのだけど、どうだろうか。